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聖書における葬儀観紹介

葬儀は祝福


故人にとって、葬儀を行われることは祝福です。

聖書には、善良な人や神様の御心に従順な人の死について、
次のように示されています。

「あなたは安らかに死んで、人々は、あなたの先祖たち、あなたの先にいた王たちのために香をたいたように、あなたのためにも香をたき、ああ主君よと言ってあなたをいたむ。」
                                       (エレミヤ34:5) 

「アサは、彼の先祖たちとともに眠った。すなわち、その治世の第四十一年に死んだ。
そこで、人々は、彼が自分のためにダビデの町に掘っておいた墓に彼を葬り、香料の混合法にしたがって
作ったかおりの高い香油や香料に満ちたふしどに彼を横たえた。そして、彼のために非常にたくさんの香をたいた。」                                (Ⅱ歴代誌16:13)


「射手たちがヨシヤ王を射たとき、王は家来たちに言った。
『私を降ろしてくれ。傷を負ったのだ。』
そこで、家来たちは彼を戦車から降ろし、彼の持っていた第二の車に乗せた。そして、彼をエルサレムに連れ帰った。
彼は死んだので、その先祖たちの墓に葬られた。全ユダとエルサレムはヨシヤのために喪に服した。
エレミヤはヨシヤのために哀歌を作った。
そして、男女の歌うたいはみな、今日に至るまで、彼らの哀歌の中でヨシヤのことを語り、これをイスラエルのために慣例としている。」                     (Ⅱ歴代誌35:23~25)

故人に対する想い入れが深いからこそ、残された遺族や仲間は嘆き悲しみ、丁重な葬送をしようとします。

 

グリーフ・ケア効果


残された遺族や仲間にとって、
葬儀を行うことにはグリーフ・ケア効果があります。

愛する人が亡くなったとき神の民イスラエル人は、
しばらく喪に服して故人を悼み、悲しみました。

                     それは、愛する人を失った悲嘆を落ち着かせるために必要だったからです。

「ヤベシュ・ギルアデの住民が、ペリシテ人のサウルに対するしうちを聞いたとき、勇士たちはみな、
立ち上がり、夜通し歩いて行って、サウルの死体と、その息子たちの死体とをベテ・シャンの城壁から取りはずし、これをヤベシュに運んで、そこで焼いた。それから、その骨を取って、ヤベシュにある柳の木の下に葬り、七日間、断食した。」                        (Ⅰサムエル31:11~13)

「ダビデはヨアブと彼とともにいたすべての民に言った。
『あなたがたの着物を裂き、荒布をまとい、アブネルの前でいたみ悲しみなさい。』
そしてダビデ王は、ひつぎのあとに従った。彼らはアブネルをヘブロンに葬った。
王はアブネルの墓で声をあげて泣き、民もみな泣いた。」
                                   (Ⅱサムエル 3:31)

このように、丁重な葬儀をすることは、故人にとって祝福であり、遺族や仲間にとっては
悲嘆を緩和するために必要なことです。

 

不敬虔な者の末路


それに対して、
死んでも誰からも葬儀をしてもらえないことは、
不敬虔な生き方に対する報いです。

聖書には、次のように示されています。

「忌みきらわれる若枝のように墓の外に投げ出された。
剣で刺し殺されて墓穴に下る者でおおわれ、踏みつけられるしかばねのようだ。
あなたは墓の中で彼らとともになることはない。あなたは自分の国を滅ぼし、自分の民を虐殺したからだ。
悪を行う者どもの子孫については永久に語られない。」   (イザヤ14:18~20)

「年は巡り、二年の終わりが来ると、彼の内臓は病のために外に出てしまい、ついに彼は重病の床で死んだ。
彼の民は、彼の父祖たちのために香をたいたようには、彼のために香をたかなかった。
彼は三十二歳で王となり、エルサレムで八年間、王であった。彼は人々に愛されることなく世を去った。
人々は彼をダビデの町に葬ったが、王たちの墓には納めなかった。」   (Ⅱ歴代誌21:19)


聖書には、次のような御ことばがあります。

「もし人が百人の子どもを持ち、多くの年月を生き、彼の年が多くなっても、彼が幸いで満たされることなく、墓にも葬られなかったなら、私は言う、死産の子のほうが彼よりはましだと。」   (伝道者の書6:3)

 

キリストによる救い


ただし、肉体の死は、決して永遠の滅びを意味するものではありません。

たとえ肉体が滅びたとしても、霊魂は永遠に不滅です。

「ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。」
                     (伝道者の書12:7)

人間は、肉体が滅びた後、霊魂が天に引き上げられ、神様の御前で人生のすべてが評価されると
聖書は宣言しています。

「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、
各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになる」
                                 (Ⅱコリント5:10)

「神は、ひとりひとりに、その人の行ないに従って報いをお与えになります。
忍耐をもって善を行ない、栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、永遠のいのちを与え、
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、怒りと憤りを下されるのです。

患難と苦悩とは、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、悪を行なうすべての者の上に下り、
栄光と誉れと平和は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、善を行なうすべての者の上にあります。
神にはえこひいきなどはないからです。」
                                    (ローマ2:6~11)

しかしながら、いったい誰が、このさばきに耐えられるでしょうか?
生きていて、全く罪を犯さない人などいるのでしょうか?
神を知らず、罪深い生活をしてしまっている人はどうしたらいいのでしょうか?

安心してください。
的外れな生き方をしている私たち人間を救い出すためにこそ、
イエス・キリストは約2000年前にこの地上に来られたのです。

「私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。
正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。
情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。
しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、
神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」
                                           (ローマ5:6~8)

「キリストも一度罪のために死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。
それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神のみもとに導くためでした。」
                                       (Ⅰペテロ3:18)

「これはわれらの神の深いあわれみによる。
そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、
暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」
                                                (ルカ1:78)

 

天国への希望


「イエス・キリストが十字架の上に身を捧げたのは、
私の罪の身代わりのためだった。」

あなたがそれを信じ受け入れるなら、あなたは救われ、天国に迎え入れられます。

神様の恵みにより、ただ信じるだけで救われると聖書に約束されています。

「神の義が示されました。
すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、
それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、
キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。」
                                               (ローマ3:21~24)


聖書の黙示録には、天国の光景が次のように描写されています。 

「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。
それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。
川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。
また、その木の葉は諸国の民をいやした。
もはや、のろわれるものは何もない。
神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、神の御顔を仰ぎ見る。
また、彼らの額には神の名がついている。
もはや夜がない。神である主が彼らを照らされるので、彼らにはともしびの光も太陽の光もいらない。
彼らは永遠に王である。」
                                              (黙示録22:1~5)