神愛ブログ

2012年4月30日 月曜日

天国への希望 ~キリスト教葬儀・神愛セレモニー~

初めてキリスト教の葬儀に参列したとき、衝撃を受けました。

「葬儀なのに、明るさがある。」


私は19歳のときに初めて教会に導かれ、キリストと出会いました。

それまでは、ほとんどキリスト教には触れたことがなく、正月には神社に初詣へ、お盆は寺にお墓参りに行くような、日本人のごく一般的な生活をしていました。実家には、仏壇も神棚もあります。
 
教会に行ったことがなく、葬儀といえばすべて仏式でした。
暗くて、苦しく、わけの分からないのが葬儀だと思っていました。

しかし、初めてキリスト教の告別式に参列したとき、ただ悲しいだけで終わるのではなく、天国への希望と慰めのあるキリスト教葬儀に感銘を受けました。

肉体の死は、決して永遠の終わりを意味するものではなく、天国で神さまと共に過ごす日々の始まりであると本気で信じている人々がいることに驚いたのを覚えています。


それまでの私の死生観は、死んだ後は何も無い、あるいは輪廻転生をするのかもしれない、というものでした。死んだ後はどうなるかなんて分からず、ただこの世のことに焦点を合わせているだけです。漠然として、曖昧な価値観しか持っていませんでした。

けれども、聖書の世界観は明確です。天地を創造された神さまがおられ、私たちの人生を導き、キリストを信じるものは神さまの御国に住むことができる。しかも、それを本気で信じている人々がいる。


本音と建前を使い分ける日本社会では、たとえ葬儀のときに極楽浄土の話をしたとしても、「それが遺族の気休めになればいい」という程度にしか思っていないことが多いです。

それに対して、クリスチャンの多くは、天国や神さまのこと、救い主イエスさまを本気で信じています。教会の牧師さんも、確かな信仰に基づいてメッセージを語っています。

そのような明確な世界観、死生観、確かな信仰は、生きる意味を見出せずにさ迷っていた私のような者にとって、大きな希望を与えてくれます。


キリスト教の葬儀には、天国への希望があります。

「私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。

『見よ。神の幕屋が人とともにある。
神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。

もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。』」   

                         (聖書・黙示録21:2~4)



        


 
 


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投稿者 神愛セレモニー